歴史から見る日本の風水 【四神相応】

四神相応と風水 風水の基本

太平洋に飛び込んだ龍

日本は、紀元前六世紀から三世紀にわたった弥生時代に大きな発展を見ます。それまでは狩猟や採集を中心とした生活でしたが、弥生時代に入ると稲作が始まり、食料を貯蔵し、青銅器や鉄 器、農業用具などを作るようになったのです。食料を貯蔵することは人口の増加や定住型の生活 をもたらしました。住居も竪穴式に代わって高床式が登場します。この時代に日本の農耕型の生活の基礎が誕生したのです。

弥生人は朝鮮半島からの渡来人だという説はかなり有力なものだといわれています。それ以前の縄文人に比べて身長が十センチほども高く、顔立ちも縄文人が彫りの深い顔であったのに対して、弥生人はいわゆる公家顔ののっぺりタイプです。稲作がどこからやってきたかに関してはさ まざまな説がありますが、そのひとつに中国から朝鮮半島を経て伝わったのではないか、というものがあります。もしそうならば、弥生時代の生活様式や文化は大陸渡来のものであったと考え ることができます。
その頃の中国はすでに戦国時代でした。『三国志』の背景もこの時代です。日本がようやく生活に先進技術を取り入れようというときに、中国には城を築き、土地や民を所有する封建制社会 があったのです。その先進の文化を取り入れたことで、日本はこの時期に飛躍的な発展をみたのだと考えられます。  大陸の生活様式や技術、文化を積極的に吸収しようとしていたのが、女王単知唹の統治する国家、邪馬台国です。

「魏志倭人伝」によると卑弥呼は魏へ数回にわたって遣いを送っています。本来の目的は魏の王朝より援助を得るためだったようですが、同時にさまざまな品物や文化を持ち帰ったのです。大陸からの物資や情報が、当時の日本に大きな影響を与えたことはいうまでもないでしょう。三世 紀から四世紀にかけての大和政権時代につくられた古墳も、そのひとつだと考えられます。中国 では秦の始皇帝の驪山陵も漢の武帝陵などもすでにひとつの時代を閉じ、また新たな戦国時代へと入る前兆の時だったのです。  そこでひとつの推論を提示してみたいと思います。  卑弥呼の送った使節団が持ち帰ったものの中に道教(老荘思想)があったのではないか。

道教は、紀元前から存在した思想に民間信仰や陰陽道などが混ざり合ってできたもので、易 ・陰陽・五行・星占いの考え方などはこの教えに含まれます。もともと呪術的な側面が強く、魔 除けや呪い、祈祷なども行いました。卑弥呼白身がシャーマン(巫女・まじない師)であったといわれるように、弥生時代の生活はまじないや占いが生活の中で重要な役割を果たしていました。 そうした基盤があったからこそ、道教の思想は大変受け入れられやすかったと考えることができるでしょう。  そしてこの当時、道教の教えの中に風水が存在したのではないでしょうか。  弥生時代は日本人が家を作った最初の時代です。また、生活様式の変化に伴い、人々は集団をつくって暮らすようになりました。つまり、。ムラ”などの集落の誕生です。集落をつくるには それなりの秩序が必要です。リーダーの住居はどこにするか、食料はどこに貯蔵するのか。家づくりや集落づくりにおいては経験も歴史も少ない弥生時代のこと、風水の教えはひとつのルール 30 として絶対的なパワーを発揮できたはずです。この時代に急速に住居や集落が発達したのも、風水の理論が普及していたためだと見ることもできます。

年月を重ね、小さな島国である日本は大陸文化を見事に受け継ぎ、独自の文化を生み出すまで に至りました。世界地図で見ると、中国大陸に沿って太平洋に飛び出したように連なる日本列島は、まるで大 陸が産み落とした子供のようにも見えます。  アジア全体の風水をみる場合、中央アジアの山脈は世界の尾根という異名をもつように8000メートル級の山々がそびえ立ち、その中でもチベットの崑崙山脈が一際美しくもあり、冷厳さも あり、まさしくアジアを代表する地龍といえます。  日本列島は富士山を頂点として、小さな地龍にたとえられます。まさに太平洋に飛び込んだ龍なのです。日本列島を龍とすれば京都の位置が龍の子宮、四国が愛児にたとえられます。ここに 興味深い史実があります。その四国の出身である松平家の子孫、徳川家康が龍の腹に当たる江戸、すなわち東京に都を開 き、徳川幕府三百年の礎を築いたのです。  この不思議な偶然の中に、風水の秘力をみることができます。

風水は「地理」「造形」の基礎

風水でいう”よい土地”とは「四神相応」という原則にあてはまる場所のことを指します。 「四神」とは、青龍・白虎・朱雀・玄武という、中国に古くから伝わる聖獣のことをいい、それぞれが東西南北の守護神だとされています。これらが風水の地理観念に当てはめられているの です。

まず、龍脈を生むとされている北の山を指すのが「玄武」。玄武を背に西`(右側)に伸びる山脈は白虎、東(左側)の山脈を青龍と呼びます。そして龍の気を手前側から守るのが南側にそび える山の「朱雀」です。イメージしていただくと分かりやすいと思うのですが、玄武から流れる龍(気)を、それぞれ の山脈が包みこみ、大切な気がよそへ流れていかないような配置になっていることが理想的だと いうわけです。ちょっと想像してみただけでも、こうした地形は人が暮らしやすく、また精神的にものびのび できる場所と考えられないでしょうか。背後に大きな山を背負い、三方にも小高い尾根の連なり を見る平地。いかにも、安心して気持ちよく暮らせそうではないですか。風水理論を生かした建物というと、私は台北の国立故宮博物院を思い出します。パリのルーブ ル、ニューヨークのメトロポリタン、サンクトペテルブルグのエルミタージュと並んで世界の四

大博物館に数えられるここは、建物が左右対称のつくりとなっており、門から建物に至る空間にはゆったりとした広場があります。風水はすべての物事を。陰と陽”。表と裏”と一対で考えます。主体と対象、男と女、作用と反作用、考えてみるとこの世にあるものはすべて対をなしているのです。その考えを建物に取り入れると、シンメトリーに対称を描くようになります。

蒋介石を記念して建てた「中正紀念堂」もまた、左右対称の広々としたつくりが特徴です。中山南路に面した正門の大アーチ。大中至正”をくぐると右手に国家戯劇院、左手に 国家音楽廳があります。そして中央広場正面にひときわ堂々としたたたずまいを見せる白亜の建物が、中正紀念堂です。二十階建てのビルに相当する台湾最大の公共建築物です。左右の建物に守られるように建てられたここに立った私は、大きな”気”がたちこめているのを感じずには いられませんでした。偉大な指導者であった蒋介石は、現在に至っても台湾のシンボルとして国を守り、その発展を願っているのでしょう。

その台北にある道教の本山「指南宮」は、台北の南東へ十ニキロ行った木柵にある、台北の龍穴(気のエネルギーの満ちるところ)に見事にピタリと建てられています。龍穴はまさに気の発生する場所ですが、だからこそ扱い方が難しいのです。前にも触れましたが、そのパワーは強大 で、一般の住居や社屋を建てる土地としては危険です。その神聖なエネルギーは、神仏などの人知を超えた存在や、城などのように公的な意味合いをもつものにこそふさわしいといえます。龍 穴に土地の神を祀ったことで、その神に護られる台北は都市としての発展を約束されたも同然でしょう。
また、住居やビルの正面に、二つの建物の間にできた空間がポッカリと現れているのを『天斬殺』と呼び、忌み嫌います。天からまさかりを振り下ろされたあとのような不吉な情景だからです。人が自然と心地よく共存できる土地(環境)の見定め方と、人が大地の気をたっぷりと受け取れる建物のレイアウトの方法を教えてくれるのが風水です。風水を理解することは、自然の恩恵を最大限に活かす地理・造形を学ぶことにあるのです。

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